大人になるということ
大人ってなんだろう。
大人と子供の違いはなに。最近の最大の疑問。
大人気ないとよく言われるから。そして、私も大人だと今でも思えないから。
例えば、電車賃とかアルコールが飲めるとか選挙権とか、そうゆうのは「子供」か「大人」かの違いがわかりやすい。
そうゆう数字的な区分で一見明瞭に分類してもらうと、私は間違いなく「大人」に分類されるだろう。
でも、中身はどうなんだろう。何ができて、何ができなかったら大人?
そんなの誰も教えてくれない。
いつからか、「もう大人なんだから。」と言われる。
そう言われたら、「確かに」と思って、自分を省みるのだけれど、
一瞬「待てよ。」と足が止まってしまう。
別に大人になんて、なりたくてなった訳じゃないし。そんなん言われたって、しょうがないじゃないか、困ってしまうって思ってしまう。
理由もなく、「大人だから」というのは、それが絶対的に正しいように聞こえてしまうという点でずるいよって言いたくなる。
何か、正したりするときには、納得できるように理由をつけて欲しいとかなんやかんやと屁理屈をこねては、指示に対して反発したくなる万年反抗期の私が「出番かな?」って顔を出し始める。
嫌なこと、気に入らないことがあるとすぐ反発してしまう辺り、まだまだ子供だし、直そうと思っていない辺り、年齢とは離れてやっぱり大人には程遠いなと思っている。
じゃあ、私が考える大人ってどうゆうことかと考えてみたのだけれど、
・年齢に関係なく、自分の役割をしっかりと演じられる人
・私情を切り離して、物事の決断・意見ができる人
のことを指すと思っている。
そうゆう人になりたいかと思うと、一瞬戸惑ってしまう。
颯爽と朝になれば自分の役になりきって、そして帰宅したら服を脱ぎ捨てるように自分の役割を終える。それはなんとなく、社会性があってかっこよくも思える。そうゆう人に憧れがないわけではないけれど、きっと疲れるんだろうなぁなんて他人事のように思ってしまうくらいには、まだまだ道のりは遠い気がする。
話は変わるけれど、私の手元には一枚の古い写真がある。
なんかのきっかけで手元にきたのか、はっきりとは覚えていない。ただ、なんかの折に、祖父母の家に訪れたときに、「好きな写真を持っていいよ。」と言われてもち帰ったものだった。
数ヶ月前に、米寿のお祝いをした祖父の20代の頃の写真。
当時は、まだモノクロ写真が主流だったのか、カラーの写真はない。
長身の祖父が、タバコを手にして、歩いている何気ないところを撮った一枚。
ポーズを決めている訳ではなく、あくまで自然な写真。
長身だったからか、身内びいきになってしまい恐縮なのだけれど、どこかの映画俳優のようにも思える。
颯爽と歩く姿には、自信に満ちていて、カッコ良い。
写真に写る祖父は、紛れもなく大人だ。
風貌だけではなく、難しい顔をしているから貫禄がある。
貫禄って、大人であることの説得力のことを指している気がする。大人にだけ許された遊び、食べ物などを経験し、社会の仕組みをそれなりによく知っていて、そして、人生の酸いも甘いも知っているようなそんな人のこと。
祖父の顔は、紛れもなく「説得的」だった。
祖父は、かっこよかった。でも、本当に大人になりたくてなったのだろうか。
時代背景とか、色んな要素が複雑に絡み合って、もしかしたら大人にならざるをえなかったのかなぁとも思ったりもする。
大人になる覚悟や意思がないのに、大人にならざるをえなかった場合、身体に合わないスーツを無理してきて、そして、その反動で家では全裸で過ごして、開放感に浸ったりしたくなったのではないだろうか。
家で威張ることで、外での「大人」の役割を家庭でも持ち込んで「おままごと」のように日常をやり過ごしたのではないか。
そんなことを、老いた祖父を目の前にして思ってしまう。
祖父は、最近とても老いた。年齢のせいだけじゃない。
わがままで、気に入らないことがあると癇癪を起こしたり、自分の好きなものしか食べない。そして、寝ている時間がとても長い。
一方で、笑う時には目尻が下がって、満面の笑顔になる。その表情に邪気がなく、「好々爺」である。写真に撮って、フォトショップで顔じゅうの皺を消してしまえば、赤ちゃんのように映るに違いない。
年老いた祖父は、大人の時期を経て、子供に還った。
その姿を見つめながら、早く大人にならなくても良い現在に少し感謝もしつつ、大人にやっぱりならなくてもいいんじゃないって思う。
子供として生まれて、子供に還るのだとしたら、
ずっと子供でいたっていいじゃない。
思った通りに、ありのまんま生きてもいいじゃないって。
それが、いい意味でいられるなら、それでもいいじゃないって思う。
わがままと言われたってそれでもいいじゃない。
ありのまま行こうよ。