こうして私は今日も会社へと向かう。

秋なのに、夏と見間違うような気温の中で、私はまだ夏に囚われたような気になっている。

でもそれは囚われた気になっているだけで、季節はしっかりと移りかわっていて

毎年、短い時間しか堪能できない金木犀の耽美な香りを今日も胸一杯に吸い込んでいつもの坂を下っていく。

 

つい1週間前に私は社会人になった。
もう、誰もが、そう私自身でさえも、「お前二の足だけじゃなく、三の足も踏んでるだろ。」って思う位に、社会人になるのに時間がかかった。

社会人になるのに時間がかかりすぎて、「社会人」という言葉に緊張を覚え、本当に社会人になれるのかなんて怖くなるくらいだった。
これは誰かの言葉の受け売りの、そのまた受け売りなのだけれど、
英語に「社会人」という言葉ないのだという。

なるほど、そうなのかもしれない。
「社会人」になることで、私自身は変わらないはずなのに、それでもなんとなくだけれど窮屈になったり、肩身が狭くなったりする気がするのはきっと私だけではない。

それは、見てくれがいいけれど、履くと足が痛いハイヒールに無理やり足を突っ込んでいるようなもので、誰が早く根をあげるかの根比べをしているようなものである。

別に根をあげて、ビーサンに履き替えたからといって、それはきっと取るに足らないのだけれど、皆が皆そろいもそろってハイヒールを我慢して履いている内は、きっとビーサンを履いているだけでは心もとなくなるだろう。
きっと「社会」ってそうゆうものなのだと思う。

そんな訳で、やっと観念して私はハイヒールに足を突っ込むことにしたのだけれど、
ね、皆一体どうしてこれを履き続けていられるのと思う程、痛くて窮屈である。

私の脚は、化学繊維をまとって女性らしい質感の脚になるようにカバーされ、雑踏に紛れ込むと誰も私に気づかないような無個性の堅苦しくて窮屈なスーツに身を包み、毎日なんとなくどんよりとした電車にのり、地上にでることなく、決められた時間に決められた場所へと向かうようになった。

新しいハイヒールを履く時は当然そうなるように、靴ずれが心にも出来る。
慣れない雰囲気、慣れない環境、慣れない人間関係
かすり傷が組み合わさって、バンドエイドを貼るのもバカバカしくなるような靴ずれができる。

もういい大人である。
靴ずれが、そう遠くない内にかさぶたになり、そして、その後数日もすれば、皮がペリリとむけて、傷などなかったかのようになっていくのも知っている。

それなのに、

それなのに、

電車の中で、いきなり思い切り踊ってみたくなったり、
そんな一見ふざけたことを、でもやってみたらとんでもなく気持ちがよいことを
スーツを着てやってみたくなるのはなぜだろう。

偶然同じ電車に居合わせた、同年代やら目上やら年上やらそんな方々の顔を覗き込んで、一体生きがいって、働くってなんですかね?と年甲斐もなく詰め寄りたくなるのはなんでだろう。

働きたくない訳ではない。
ただ、働く前提として、当たり前のように皆と同じ秩序を保つことを要求されるのが嫌なのである。

でも、

それでも、

やっぱり私は明日の朝、鏡に向って仮面を整え、窮屈な服に身を包み、あわない靴に足を突っ込んで

同じ電車で会社へと向かうのだろう。

きつかった靴が足にいつか馴染んでくれることを願いながら。

同時に、きっといつか翻すであろう反旗を心にかかげながら。。。
ね、働くってきっと多分そうゆうことでしょ。